「誰がために医師はいる - クスリとヒトの現代論」(2)

松本俊彦氏の「誰がために医師はいる - クスリとヒトの現代論」を読んだ私の感想を述べます。

依存症の双璧は覚醒剤とアルコールであることは論を待ちません。現在の日本では、覚醒剤の所持ですら厳罰に値する犯罪行為です。一方、アルコールは合法的で、マスコミのコマーシャルではバンバン「推奨」されています。松本氏によれば、後述のように社会全体の害という点では、覚醒剤よりもはるかにアルコールの方が問題は大きいと言います。それなのになぜアルコールは許容されるのでしょうか。氏によれば、1つは歴史の長さと社会浸透度のゆえ、もう1つは、「ワインは神聖なるキリストの血」と見なす宗教的世界観が主流だから、とのことです。

松本氏の言いたいことはただ1つです。この世には「よい薬物」も「悪い薬物」もなく、あるのは薬物の「よい使い方」と「悪い使い方」だけです。したがって、覚醒剤は悪、アルコールは善、という単純な区分けは妥当性がありません。「悪い使い方」の背景に思い至るべきだというのが一貫した主張です。「悪い使い方」をする人は、必ずや薬物とは別に何か困りごとや悩みごとを抱えているというのです。

すなわち、覚醒剤について言えば、厳罰でいくら取り締まっても、覚醒剤を使うようになった背景に支援の手を差し伸べなければ、覚醒剤を断ち切ることはできない、というのです。
従来の精神科は、あるいは、刑法の考え方は間違っている、というのです。
この言葉で、私の「依存症は治らない」という思いがなぜ生じたのかの理由が分かったように思いました。
日常診療では、覚醒剤よりもアルコールの問題のほうがはるかに多く遭遇します。背景に思い至らなければ、アルコールを物理的に排除しようとしても、所詮、無意味だ、ということになるのです。
「アル中」と呼び、「困った人だ」と蔑んでも、何の解決にもならない。大切なのは、それに手を出す背景に思い至るべきだというのです。「困った人」は「困っている人」だというのです。

松本氏は依存症者の心の中をこう表現しています。
「依存症者にとって薬物はあたかも自分の「親友」「盟友」のようなもの、少し気取ったいい方をすれば、「ケミカル・フレンド」なのです。それだけに、薬物依存症者にとって、薬物を手放すことは一種の喪失体験(長年連れ添った伴侶との別離にも似ています)でもあるのです」。
薬物使用の理由を知ったときこう感じたそうです。
「薬物依存症の本質は「快感」ではなく「苦痛」である、という認識だった。こういいかえてもよい。薬物依存症患者は、薬物が引き起こす、それこそめくるめく「快感」が忘れられないがゆえに薬物を手放せない(=正の強化)のではない。その薬物が、これまでずっと自分を苛んできた「苦痛」を一時的に消してくれるがゆえ、薬物を手放せないのだ(=負の強化)」。

そうした背景を踏まえた依存症の治療は、具体的にどうあるべきでしょうか。
一言でいえば、否定しないこと、悩みを聞いて支えてあげること、に尽きるようです。ただ個人的に対応しても限界があります。松本氏によれば、自助グループ(薬物だとダルク、アルコールだとAA)の存在が大きいと言います。自助グループの凄さを知ったときのことをこう述べています。
「自助グループとは、自分の過去と未来に出会い、仲間たちと自虐的なユーモアをシェアしながら、薬物のない今日一日を確認し合う場所なのか。そしてその場所は、病院でもお手上げで、「出入禁止令」を出さざるを得なかった依存症者まで受け入れ、彼の薬物使用を止める力を持っている。驚きだった」。

刑務所で感じた私の疑問(2021/6/2ブログ)に対し、松本氏はこう答えています。
「法務省のデータを用いた、千葉大学の羽間ら、および国立精神・神経医療研究センターの嶋根らによる二つの研究は、薬物使用者は刑務所により長く、より頻回に入れば入るほど、再犯リスクが高まること、そして、刑務所服役のたびに依存症の重症度が進行することを明らかにしている。これらの知見は薬物自己使用者の再犯防止には、刑罰が有効ではないどころか、かえって妨げになっている可能性を示唆している」。
やはり、そうなのだと思いました。
この問題については自分一人ではどうしようもありませんが、医学界と法曹界が協力して取り組むべき大きなテーマだと感じました。

最後に告白します。
この本では、私自身が直面して悩んできた重いテーマが他にもいくつか取り上げられていました。思い起こせば、あの人の、あの学生の、あの患者の、あのリストカット、あの過食嘔吐症、あの自死。いずれも悲しい、悲しい結末でした。どうしようもない絶望感を味わいました。後悔してもどうしようもありません。もう一度あの時に戻って対応できたら・・・。
胸を掻きむしられる思いがしてなりません。