がん体験談スピーカーバンク

がん教育が全国で進められています。がん対策基本法の改正(2016年)と学習指導要領の改訂(2017・2018年)が後押しとなりました。
がん教育の重要性に早くから気づき、がん患者の立場でがん教育に関わることを志したのが、がん体験談スピーカーバンク創始者の河口雅弘氏です。私は河口氏の診療を長年担当していましたが、実は河口氏から多くのことを学ばせてもらっていました(2019/10/7ブログ「参療権に関する考察」)。
患者としてだけでなく、市民・県民・国民の立場から行政や医療者に鋭く問いかけ、提言を重ねて来られました。仲間を束ね、組織として活動する重要性も熱く語っていました。
その河口氏が亡くなられました。痛恨の極みです。数日後、御家族からお電話をいただきました。「先生に御礼を言うようにとの遺言がありました」。私のほうこそ御礼を言うべきなのに・・・。涙が出ました。

現在の茨城がん体験談スピーカーバンク代表の志賀俊彦氏(2019/5/28・2020/1/31ブログ参照)が先日(2/11)フェイスブックに追悼文を寄せました。病気を除けば私の知らないエピソードに溢れ、河口氏の人柄が偲ばれます。許可をいただきましたので転載します(写真は志賀氏提供)。

「私が患者会活動を始めるきっかけになった2人の人物がいる。
2人とも勝手に師匠と崇めているのだが、私の人生を大きく変えてくれた。
1人は「キャンサーペアレンツ」創始者の西口洋平さん。もう1人は「がん体験談スピーカーバンク」創始者の河口雅弘さんである。
昨日、河口さんの訃報が届いた。
河口さんは日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)に勤務していて総務部長まで勤めあげ、定年退職後は系列会社の社長として出向していた。しかし、そこでステージⅣの膵臓がんと診断され、会社も辞めて闘病。丁度同時期に東日本大震災が発生し、ご自宅が大きな被害を受けたことも相まって、精神的にもかなり落ち込まれた時もあったらしい。しかし、持ち前のパワーで復活し、自らの闘病経験を社会に還元すべく「がん体験談スピーカーバンク」を立ち上げて、茨城県内で活動を始めた奇蹟の人であった。
新聞にその記事が掲載され、たまたま目にした私が問い合わせたのが、最初の出会いであった。
河口さんの信念と私のやりたいことが合致したこともあり、私も「がん体験談スピーカーバンク」に混ぜてもらい一緒に活動を始めた。
大企業の総務畑のトップや社長の経験もあるだけに、とにかく仕事ができた方だった。交渉力や調整力も素晴らしかったし、特に文章作成力に長けており補助金申請などのいわゆる「役所に通る文書」を書かせればピカイチであった。さらにまったく偉ぶることがなく、とにかくフラットに物事を捉えることのできる方だった。今まで会社員としても何人かの上司に仕えたことはあるが、一番尊敬のできる人だった。
茨城県が知事交代に伴い大幅なコストカットのメスが患者会にも及び「がん体験談スピーカーバンク」の活動に影響があることをいち早く察知し、患者会を県の影響の受けない所へ独立させる道筋を作り、私に代表の座を譲り顧問となった。当初その話しをいただいた時、時期尚早とお断りしたが「全面サポートするから」との言葉をいただき、本人は黒子に徹してくれた。患者会名も「茨城がん体験談スピーカーバンク」と改めてスタートを切った。
通常、親が社長を引退し、子どもに2代目を継がせても親があれこれ口を挟むパターンはよく目にするが、河口さんは一切そのようなことはなかった。患者会ではわざと嫌われ役を演じたり、泥を被ることも厭わなかった。だから私ものびのびやらせていただいたし、山ほど相談もした。2人で食事をしたのも数えきれない。
昨年4月に体調不良を感じたところ、膵臓に新たながんが見つかった。10年前の再発ではなく、新たながんとのことだった。膵臓全摘手術を行ったが術後に肝臓への転移も認められ、緩和ケアや在宅医療など併用しながら闘病生活を送っていたが、2度目の奇蹟は起こらなかった。
私は患者会活動を行う時、いつも「河口さんならどう考えるか」「河口さんならどう動くか」を強く意識して行動してきた。そして都度河口さんに答え合わせを求めてきた。しかし、もう答え合わせをしてくれる人はいない。
これからがある意味、正念場なのかもしれない。そして先人達から受けた襷は確実に繋がないといけないし、私たちの代で襷を途絶えさせてはいけないと強く感じた。
河口さんのご冥福をお祈りするとともに、師匠がいなくなった今、私の「拠り所」を見つける長い旅が始まりそうである。」