先生はいつまでこの病院にいるのですか?(へき地医療のこと)

ニューイングランド医学雑誌(NEJM)は、質の高い論文で有名なアメリカの医学誌です。論文だけでなく医療についての含蓄のあるエッセイ(Perspectives on Practice)も載せています。秀逸なエッセイ14編*の案内がNEJMから最近メールで届きました。2016-2018年に掲載された中から選ばれています。このうち「And how long will you be staying, Doctor?」(先生はいつまでこの病院にいるのですか?)に興味が湧き、読んでみました。
* http://cdn.nejm.org/pdf/Perspectives-on-Practice.pdf

エッセイの分類は「rural health care」。英語のruralはurban(都会の)に対する語で「田舎の、田園の、農村の」などと訳されます。Rural health careは「都会から離れた地域の医療」という意味になりますが、ここでは「へき地医療」がふさわしいかもしれません。日本人の描く「へき地医療」は離島や山間の狭い地域の印象があります。しかし、日本とは比べものにならないほど広大なアメリカの話です。小さな日本の「へき地」も大きなアメリカの「rural」も相対的には同じような気もします。

エッセイの概要は以下のようです。
作者は、ニューメキシコ州シップロックのノーザン・ナバホ医療センターに勤務するヘザ・コーヴィッチ医師(女性)。記事に添付された音声インタビューによると8年前からこの病院に勤めています。専門は家庭医療(総合診療)。ご主人とお子さんがいるようです。ご主人の職業は明らかにしていません。

友人の女性医師と一緒に夕方、病院の周りを犬と散歩している場面から話は始まります。砂漠の街に落ちる夕陽が空をサフラン色に染めています。
友人が「車庫を今度、ジムに変えるって話、したかしら」と呟きました。自分は既にその話を聞いていました。お金のかかる改造工事です。本当かしらと疑問に思っていました。が、疑問は口にせず、「早く見たいわ」と返事をします。ホッとする気持ちもありました。
なぜ疑問に思ったか。なぜホッとしたか。

患者からは「先生はいつまでこの病院にいるのですか?」という質問をよく受けます。へき地は医師不足です。住民は都会よりも高齢者が多く、健康状態もよくありません。こうした田舎の病院に医師が、しかも優秀な医師が定着することはあまりありません。お金で誘っても医師は定着しません。医師は、医療が逼迫している地域に行きたいのではなく、住みたい所に住みたいというのが一般的だからです。
自分は東海岸の大学を出て西海岸で研修をし、外国で代診医を勤め、2-3年のつもりでニューメキシコにやってきました。ここの患者の病気は多種多様で、合併症をたくさん抱えています。勤め始めの頃、甲状腺機能亢進症(バセドー病)を診断したとき、「内分泌の専門家はどこにいるの?」と先輩医師に聞いてしまいました。相手はびっくりしました。「えっ、なぜ送るの?アイソトープで治療すればいいじゃない!?」。

高次機能病院までは車で数時間を要します。仮に紹介するにしても一、二度の外来だけです。ほとんど自分の病院、クリニックで治療をすませます。自分はICUで診療もすれば外来も診ます。患者の家族も皆、自分の患者です。いろいろな人間模様にも関わって来ました。どうしてこの地域、この病院を離れることができるでしょうか。

医師はこの病院に代わる代わるやってきます。ローンを返済するため、経験を積むため、試しに冒険をするため。理由は様々でした。宿舎の敷地で仲間とバーベキューをしたり、子供同士が遊んだり、楽しいこともたくさんありました。そして、1年、2年、あるいは4年で辞めて行きます。
「あの先生、辞めるらしい」。噂を患者から聞くこともあります。
新たに赴任して来た医師に「いつまでこの病院にいるの?」とは聞かないようにしています。この質問は、自分がそうであったように、思わずムッとしてしまうからです。代わって、自分は観察するようになりました。
庭に木を植えるかしら、宿舎の手入れをするかしら、迷い犬を飼うようになるかしら・・・。
患者から「先生はいつまでこの病院にいるのですか?」と聞かれるたびに自分は「考えてもいないわ」と正直に伝えます。

実は、自宅の食卓が壊れかけています。部屋に合う最高の家具を買うか、それとも安いのにするか。迷っています。迷っていることは、患者には言っていません。
しかし、夕方の犬の散歩を一緒にしていた友人には話してみました。すると友人は一瞬だけ戸惑いを見せたあと言いました。
「最高の家具にしなさい」。

以上がエッセイの概要です。
エッセンスがうまく伝わったか自信がありませんが、夕方の短い散歩の中で、へき地に働く医師の心のヒダが鮮やかに描かれていると私は感じました。

このエッセイは2017年4月のNEJMに掲載されました。したがってその時から4年が経っています。コーヴィッチ医師は今でもノーザン・ナバホ医療センターに勤務されているのでしょうか。
病院の状況を含め調べましたので、次回述べたいと思います。