判断が狂う

昔の話です。
ある組織で働いていました。その病院の経営陣は、いわゆる天下りです。
病院が成り立つためには、天下りを一概に否定はできません。

ある時のことです。
人手不足のなか、現場は長時間労働を強いられ、救急対応に追われ、医療事故の処理やクレームで疲弊していました。自分たちの声を経営陣に伝えてほしいと頼まれました。要は、職員定数を増やしてほしい、ということです。
「医療に直接関わってこなかった理事の方々は、まず現場を見てほしい。私たちは直接言えない。だから、先生にお願いしたい」。
皆を代表して、経営陣のいる建物に向かいました。

理事の一人は話をよく聞いてくれました。
「先生のおっしゃることは、よく分かります。」
さすが、元エリート官僚です。物腰は柔らかく、丁重な言葉で応えてくれました。
しかし、と彼はおもむろに言うのです。
「現場を見ると、判断が狂うのです。」

信じ難い気持に見舞われました。
結局、人間としては分かるが、立場上できない。
そう理解しました。

皆のもとに戻る途中、足は重くなっていました。
一歩、一歩、帰りながら考えたのは、「判断」とは何か、です。
立場によっては、何が正しいのか、何を基本とすべきか、が当然異なります。病院の現場で働く者にとっては使命感が最優先します。一方、経営陣は利益が、少なくとも損益を出さないことが、最優先されます。現場は使命感、経営陣は利潤です。両者は相入れません。少なくとも相入れないことが多々あります。
どちらが正しいのか、どちらが間違っているのか。単なる善悪の問題ではないと気づきます。
それぞれの立場で異なるのです。一方を立てれば他方が立たない、ということです。
そこまで考えると、全権大使としての報告は、「彼らも彼らなりに考えて頑張っているのだよ」となりそうでした。

でも、と最後の階段を登りながら考えました。
ここは病院。病院は何のためにあるのか。黒字か赤字かの問題だろうか。そうではあるまい。医療者は、医療者としての自らの責任で自らの職場を選んでいます。その現場で感じた思いを汲んでもらえない経営陣のほうが間違っているのではないか。経営陣にしても、何のための経営なのか。利潤追求だけが目的なのか。経営とは、医療従事と同じく、志があってのことではないか。
このことを伝えよう。
その固い思いを胸に刻み、皆の待つ部屋の扉を開けました。