北茨城への小旅行

先週末、北茨城に出かけました。
北茨城市民病院の事業管理者であり外科医でもある田渕崇文先生から「久しぶりに一緒に飯を食おうよ」とのお誘いを受けたからです。
私は埼玉に越して来る前の2年間、北茨城の僻地巡回診療に月2回関わっていました(2021/12/3ブログ参照)。この巡回診療に誘ってくださったのが田渕先生でした。

田渕先生は東京医科大学茨城医療センター外科の主任教授を務められたあと、県北の地域中核病院を8年間支えて来られました。大学人が残りの人生を地域医療に捧げるというのは、言うは易く行うは難し。それなりの信念と覚悟がなければできません。

あんこう料理など海の幸を味わいながら、地域医療にたずさわる喜びを語り合いました。田渕先生は病院経営や医師確保の難しさにも触れました。それは埼玉にいる私も同じです。田渕先生は関係大学を精力的に回って医師派遣のお願いをしているとのこと。私のほうはもう大学行脚は行なっていません。なるようにしかならないという思いがあります。諦観というよりは諦めです。地域医療を本気で考えるなら、私の考えはよいわけがありません。人材確保に熱心に取り組む話を聞きながら「そうですね」と相槌を打っていると、突然、「茨城に戻って来ないか」と言われました。
さりげない口調は僻地巡回診療に誘ってきたときと同じです。
一瞬怯み、「今は埼玉が・・・」などと言葉を濁しました。
その夜、海辺の旅館で温泉に浸かり、物思いに耽りながら眠りにつきました。

翌日の日曜日、高台にある北茨城市民病院を久しぶりに訪ねました。休日診療受付には何組かの急患が順番を待っていました。奥の様子はわかりませんが、若手の医師が忙しく救急対応をしているはずでした。
高台を下りて、北茨城の思い出の地を巡りました。お気に入りの茨城県天心記念五浦美術館は残念ながら時間がなく次回訪れることとしました。片道1時間かかる僻地巡回診療の小川地区の再訪も次の機会に残しました。それでも懐かしい場所を巡ることができました。病院を除き、人と会うことはありませんでした。一部を写真と共に紹介します。

 

図1.休日の北茨城市民病院。

 

図2.大津港の巻き網漁船。徳穂さん元気かな。

 

図3.巻き網。1億円するという。漁師は東日本大震災の津波で多くを失ったと聞いた。

 

図4.大津港遠望。右手の住宅地には津波の跡が今も残る。

 

図5.平潟港。いつ来ても絵心をくすぐられる。

 

図6.六角堂。津波に流されたあと再建。茨城大学(五浦美術文化研究所)が管理・運営をしている。

 

図7.石碑「亜細亜ハ一な里」(岡倉天心の「Asia is one、アジアは1つなり」を刻む)。字は横山大観、彫刻は新海竹蔵。天心の死後30年経った太平洋戦争勃発時に建立。大東亜共栄圏のシンボルとされたらしい。

 

図8.天心の墓。東京・染井の墓と同じく土饅頭である。分骨されているという。墓の周りに散るのは椿の花。

 

図9.大津岬灯台。孤高が際立つ。

 

図10.風船爆弾放流地跡の碑。荒波の広大な太平洋を眺めつつ人間の愚かしさと滑稽さを思う。