病理を学び、西ドイツ留学を終え、国立療養所東京病院に勤め始め、職住近接の仕事に私なりの情熱を傾けていました。
1990年前後のことです。東京病院では腹腔鏡下胆嚢摘出術の独自の術式(吊り上げ式腹腔鏡手術)を開発し、一般の消化器外科手術もそこそこに行いました。
同時に緩和ケアを勉強しながらがん患者のお看取りもさせていただきました。外科で最期を看取った患者さんは2年半で50名ほどいらっしゃいました。夜中であっても、日曜であっても、私自身が全員のお見送りをさせていただきました。

そうした診療をしながら痛切に感じたのは、医療の貧困でした。いろいろな意味での貧困です。
療養所ですので施設は老朽化し、窓ガラスが割れていても予算不足とのことで修理がなかなか叶いませんでした。
当時の日本はバブル経済真っ盛り(後方視的にはバブル崩壊直前)でした。総医療費はレジャー費のたった1/6に過ぎないという時代でした。経済から医療に国民の目をもっと向けなければならないと感じました。医療経済学の勉強もしました。しかし、療養所の外科にいては如何ともしがたいものでした。

医療の質についても貧困を感じていました。
消化器がんを発見してもほとんどの患者は療養所での手術を希望せず、都心の大学病院やがん専門病院を希望されました。説得は試みず希望通りに紹介状をたくさん書きました。それは仕方ないことでした。
ところが、がんが再発すると、大病院ではその後を診ることはなく、紹介元の私の療養所に戻ってきました。そして看取りとなりました。もどかしさをいつも感じていました。

ちょうどそのときでした。出身大学の外科教授から自治医大に行ってもらえないかという打診がありました。膵臓外科の専門家が不足しているとのことでした。
私としては、細かな専門分野を極めるという意欲はあまりありませんでした。しかし、自治医大の建学の精神「地域医療への挺身」、「総合医の育成」を知り、大学での教育を通じて日本の医療を変えたいという思いが生まれました。
療養所での年間100の手術、10数名のお看取りでは限界がある、大学で毎年100人の学生に全人的な医療を教えたい、と思うようになりました。
教え子1人が100人の住民を教え、それぞれがまた100人、さらにそれぞれが100人に教えを伝えれば1億人になる。自治医大の卒業生は全国に散り、僻地を含めたあらゆる場所で活躍するから、これは不可能ではない。日本の医療をこうして変えられないか。理想の医療を目指して「医学教育」に賭けてみようと思ったのです。

「骨を埋める」と言って赴任した国立療養所を2年半で離れることになりました。看護師たちは「裏切った」と涙ながらに責めました。
それに対して、上記の思いを伝えました。主要な職員全員には「いずれ療養所の医療にも何らかの結果が出ることを期待してほしい」と書面で伝えました。
随分と大それたことを言ったと思います。しかし、それだけ「医学教育」に賭ける思いも強かったということです。
1991年春、家族を連れて栃木県に移住しました。