外科と病理

外科医になってから病理の重要性に気づき、外科医7年目からの3年半、病理の勉強をしました(2019/6/25ブログ)。この間、手術は行わず、ひたすら病理を学びました。病理を学んでから自分の外科の範囲が広がるのを実感しました。総合診療を志すきっかけにもなりました。

病理には臨床医学と基礎医学の両面があります。臨床に関わると同時に基礎医学者として真理を探究します。
一方、臨床医は真理第一主義だとは必ずしも言えません。誤解を恐れずに言えば、患者(あるいは家族)との間、ときに同じ医療者仲間との間で妥協を許容する傾向があります。

病理医は妥協しません。
「この細胞は悪性か、良性か」。
「悪性か、良性か」は患者の生死に関わってきます。妥協は許されません。病理医の声は神の声。神様に見逃しがあってはなりません。顕微鏡のわずかな所見から正しい診断に至る深い洞察が求められます。

そうした仕事をされているためか、病理の先生は概して気難しく、臨床医にとって近寄りがたい存在でした。少なくとも私にはそう思えました。もちろん全ての病理医がそうだったわけではありません。私が病理の勉強をしていた1980年代の前半、病理の一部の先生の言動はともかく強烈でした。

1990年代後半に「時代が変わった」を感じさせる一大事がありました。大学に勤めておられた病理の先生が開業したのです。
病理で開業する?!
にわかには信じられませんでした。病理医にビジネスの才能まであるとはどうしても思えなかったからです。
私の予想は見事に外れました。困難の中で独自の道を切り拓かれたのです。成し遂げたのは廣田外科病理研究所代表取締役の廣田紀男先生。のちに知ったことですが、廣田先生は慶応義塾大学文学部英文科を中退、大阪薬科大学薬学部薬学科を卒業、そのあと鹿児島大学医学部専門課程に編入学して医師になりました。医学部卒業前には立川米陸軍病院でエクスターンを経験し、卒業後は鹿児島大学医学部附属病院で内科や外科の研修も受け、1972年から病理医となりました。

鹿児島大学、愛媛大学、松山赤十字病院の病理に勤められたあと、米国ネイラーデイナー疾病予防研究所に客員研究員として留学され、1978年に自治医科大学医学部第二病理学講師となられました。助教授だった1997年に有限会社「廣田臨床検査医学研究所」を開設、2000年に社名を変更して株式会社「廣田外科病理研究所」の代表取締役になられ、現在は「保険医療機関間連携病理診断科」理事長を務められています。多くの職員を雇い、北関東を中心に活動されています。

病理の先生としては何か違う。この第一印象は間違っていませんでした。医師になる前の道、医師になってからの道が関係しているのかもしれません。アートの心と実践力があるからかもしれません。何しろ大型のテーブルの作成を、大木の伐採から、切り出し・組み立て・磨き・塗装まで全て独りでやってしまうのですから。天板にアンモナイトの化石の横断面を埋め込むなど誰が思い付くでしょうか。

廣田外科病理研究所設立25周年記念祝賀会が今年1月7日(土)午後に開かれました。
東京大学医科学研究所中西真教授の講演「老化を克服して健康寿命を伸ばす」、廣田紀男理事長の講演「化石(タイムカプセル)が伝える生命進化 - 人類に連なる系譜」、生田流箏曲・地歌三味線演奏家の吉永真奈氏と琴古流尺八・薩摩琵琶奏者の長須与佳氏による演奏「Duo和楽器コンサート」を聴くことができました。
太古の生命から繋がる遺伝子、老化のメカニズムから解く不老の道に思いを巡らせ、和楽器の調べに酔う夢のような時間を過ごしました。

許可をいただきましたので、当日のプログラムの表と裏をお見せします。廣田先生ならではのデザインです。