恩師 森岡恭彦先生のこと

森岡恭彦先生は大学医局の大先輩です。
1981年、母校第1外科の教授選挙がありました。
当時私は医局を一時離れ、東京都立老人総合研究所(現 東京都健康長寿医療センター研究所)に出向して膵癌リンパ節転移の臨床病理学的研究を行っていました。ボスが誰になるか。出向中の私を含め医局員は固唾を呑んで見守っていました。
2名が最終候補として残りました。イニシャルはどちらもMでした。したがってMM戦争という影の声がありました。その選挙で選ばれたのが森岡恭彦先生でした。真偽は不明ですが、1票差だったと当時聞きました。もう一方のM先生に私は医師1年目からお世話になっていました。私の結婚式にも出席していただきました。初めての学会発表でもお世話になりました。一方、森岡先生は、私の大学卒業直前に自治医大初代教授として転出されたため、お会いしたことがありませんでした。お顔も専門領域も知りませんでした。したがって、次期教授に森岡先生が決まったとき正直戸惑いました。お世話になったかたが落選し、見知らぬ人が当選したからです。

森岡教授は母校に戻ると早速、医局員をひとりずつ教授室に呼び入れました。
やがて私の番になりました。
何を聞かれるかは、あらかじめ面談を受けた先輩・同輩から情報を得ていました。
「何をしているのだ?」、「何を目指しているのだ?」。
ほとんどの医局員は教授の反問を受け、厳しいコメントが付いた、と聞かされていました。
初対面の日、大学に赴き、緊張して教授室のドアを開けました。
「永井さん、何をしているのだ?」。
資料の書面に目を落としながら質問されました。医師に対する「先生」ではなく、後輩に対する「君」でもなく、「さん」で質問を受けました。
次のように説明しました。
膵癌は高齢になればなるほど発生率が高まる。高齢者の多い都立老人医療センター(現 東京都健康長寿医療センター)では病理解剖が年間300例ある。その中には病理解剖でたまたま見つかる膵癌が必ずあるはずだ。その膵癌の転移様式を全割切片で組織学的に調べれば、手術の切除範囲外に癌細胞が浸潤・転移していると分かるのではないか。我々外科医が思いもつかないところに癌細胞が浸潤・転移しているのではないか。そうでなければ膵癌の手術成績がこれほど悪いわけがない。これが分かれば、外科手術の成績を向上させることができるのではないか。すでに3例の小膵癌を病理解剖で見つけた。その材料をそれぞれ約300枚のプレパラートにして顕微鏡で見ている。最初の例では結果が出ている。病理解剖で見つけた2cm大の膵体部癌のミクロ切片を網羅的に見ていくと思わぬところに癌細胞があった。上腸間膜動脈の左側の神経叢に接してあった。また、膵リンパ流の研究も行っている。病理解剖材料であってもリンパ流を可視化することができる。膵リンパ流を観察する方法を確立した。これで見ると、膵リンパ流は今まで外科医が考えていた領域以外に広く拡がることが分かった。偶然発見膵癌の臨床病理学的進展様式、および膵リンパ流を継続的に研究し、新たな膵癌外科治療に貢献したい。

森岡先生はようやく目線を私に注ぎ、一言おっしゃいました。
「面白い」。
厳しいコメントしか返さないと聞かされていたので意外な感がしました。
顔を紅潮させて教授室を出ました。
これが森岡先生との初めての出会いでした。
私の膵癌リンパ節転移の研究は、その後、森岡先生と私のもう一人の恩師 黒田 慧(あきら)先生との連名でアメリカの外科雑誌Annals of Surgeryに原著論文として採用されました(1986年、図参照)。

研究生活を終えて大学に戻り、森岡教授とは手術もご一緒させていただくようになりました。
大学病院で当直をしていたある夜、医局のソファーで森岡教授と雑談をしているとき、「留学しないのか」と聞かれました。
もしドイツの話があれば、とお答えしました。ドイツが好きだったからです。
まもなくドイツ留学の話を持ってきてくださいました。こうして西ドイツ留学が叶いました(2019/6/20ブログ参照)。
ところが、留学から帰国後まもなくの1988年秋、職住近接を理由に、家から車で5分の国立療養所東京病院への転職を勝手に決めてしまいました(2019/6/13ブログ参照)。森岡教授には相談しませんでした。医局に籍は残すものの大学とは縁を切るつもりだったからです。
1990年夏、2年近く療養所病院でそれなりに忙しく診療を続けていたとき、大学の医局長から突然電話がありました。
「来春、自治医大に移ってくれないか。森岡教授の推薦だ」。
自治医大初代外科教授からの推挙でしたので、手続き上に大きな問題はありませんでした。むしろ、私自身に迷いがありました。迷った末、医学教育と地域医療への挺身に賭けることにしました(2019/6/26ブログ参照)。

時は流れて2006年夏、医療者への医学教育から一般市民・国民への医療教育を目指し、茨城県に移るかどうかで迷っていたときは森岡先生に相談しました。
このとき先生は一言「やめとけ」とおっしゃいました。
当時、県立病院は赤字でその存続が危ぶまれていました。
「無理することはない」が一応の理由でした。

私には妙な癖があります。二者択一のとき誰かがAだと言えばB、Bだと言えばAを主張します。性分としか言いようがありません。
自治医大外科のときのカンファレンスではよく、こんなことがありました。
術前の症例提示で担当チームが「術式はAにします」と言うと、「なぜBではないのか」と必ず質問しました。あるとき、私のこの癖を利用したのだと思います。「術式はBにします」と発表した担当チームがありました。「本当はAをしたい」という意図が見え見えでした。私が「Bでいいだろう」と言ったとき、担当チームのオーベン(上級医)の表情が固まりました。反対を言うのは、もう一度よく吟味しろ、ということであって、常に患者にとってのベストを選べ、という意味です。結果はAであったりBであったりしました。

森岡先生の「やめとけ」も「もう一度よく考えろ」ということだったのだと思います。「やめとけ、と言うと永井は必ず行く」という癖をご存知だったのかもしれません。ありがたいお言葉として、もう一度熟慮した末、茨城に移りました(2019/6/27ブログ参照)。もちろんその後も、さらに埼玉に移っても、常に暖かい言葉をかけ続けてくださいました。
だからこそ、私を含め多くの弟子たちは今なお森岡先生を慕い続けているのです。