患者の職業

今年2月、看護専門学校の卒業生に向けて講話をしました。
校長と担当教員から「新しく看護師になる人にメッセージをください」と頼まれてのことです。タイトルは「これからの看護師に期待すること」としました。

「看護は犠牲行為であってはならない」というナイチンゲールの言葉、病院のさまざまな問題の中にあっても貫く看護の基本と学びの心、自分が考えてきた看護教育のあり方などを伝えました。
医師としての立場からではありますが、医療の役割に職種の差はないという前提で話をしました。看護師からの言葉として、当院の看護部長・看護師長・副師長の「一言」をいくつか紹介しました。

半世紀近く医療にたずさわりながら最近ようやく気づいたことを最後に話しました。それは「患者の職業」についてです。

高次機能病院から、急性期治療を終えた患者がよく紹介されてきます。
診療情報提供書という紹介状のなかに、現病歴・既往歴・処方薬などの情報が書き込まれています。それぞれの病院の書式に則って記入されていますが、私にはもう少し情報が欲しいと思うことがあります。例えば、身長と体重。最初から記載されていることもありますが抜けていることもあります。薬の処方量や腎機能の推定には必要な情報です。体型をイメージするのにも役立ちます。決めてかかってはいけませんが、違っていても合っていても実際に会ったときの印象は強くなります。現住所も欲しいところです。あらかじめFAXで頂く診療情報には、氏名や生年月日とともに現住所は塗りつぶされています。個人情報保護からだと思います。転院当日にいずれ解るので予め知らなくてもよいと当初思っていましたが、転院してくる患者のイメージづくりに住所は欠かせないと思うようになりました。なぜ当院が転院先になったのか、自宅付近にはもっとふさわしい病院があるのではないか、当院退院後のフォローをどこで行えばよいか、などを思うようになりました。
そうした中で特に欲しい情報が「患者の職業」です。

ほとんどが80歳代、90歳代のお年寄りです。何を今さら職業でもあるまい、と思う病院が大多数なのでしょう。職業欄が空白、書いてきても「無職」ばかりです。職業欄のない診療情報提供書もあります。
カルテに職業欄があるのは、職業病との関連だと思われます。古くは、煙突掃除夫の皮膚がん、炭坑夫や鉱山労働者の珪肺。近年になってからは、建築解体工事や石綿製造に関わった人のアスベスト関連疾患、染色工場従事者の膀胱がん、印刷工場従事者の胆管がん、が知られるようになりました。仕事の第一線を退いて長く経つ高齢者に職業欄の記載は不要と思われます。私自身そう思ってきました。
しかし、高齢の患者、特に認知症を患っている患者を多く診るようになってから考えが変わりました。単純に「無職」で片付けてはいけないように感じ始めました。

かつて都内の大学病院に勤めていたとき、いわゆる有名人が入院してくることがよくありました。大学教授、画家、作家、歌手、大企業の社長などです。有名人とは言わないまでも医師の患者もときにいました。その人たちの職業欄は、疾患との関連はなくても「堂々と」職業が記入されていました。
一方、地方の中小病院に入院してくる患者に有名人も医師もいません。市井の人ばかりです。病名は認知症、脳梗塞、心不全、がん末期、誤嚥性肺炎。ありふれた病名が並びます。

一見、似たような病状の人たちです。が、個性はあります。ひとりひとり話してみると「光るもの」を感じることがあります。発語はなくても、家族の話からどのような生き方をしてきたのか分かることがあります。ハッとさせられることがあります。独居のかたでも遠い親戚から過去の生活を聞いて見方が大きく変わったこともあります。
北海道のダム建設に関わった、プロのトランペット奏者だった、夫が早くに亡くなり自転車通勤20年で子どもを育てた、木材の買い付けに1年の半分は東南アジアにいた、トビ職人として東京の高層ビルの建築に関わった、美容師だった。主婦だった、会社員だった、夫婦で自営業をしていた。どのような主婦だったのか、趣味は何だったのか。会社員でも何の仕事だったのか。自営業で何を扱っていたのか。聞けば聞くほどその人の生き生きとした姿が浮かんできます。

ひとりの患者の「核心」に迫るにはそうした努力をすべきではないか。それが医療というものではないか。
新しく看護師になる看護専門学校の卒業生には、「病の『ある、なし』にかかわらず1人の人間の生涯をみるようにしませんか」と提案させていただきました。