医学書を除くと本を読む機会がめっきり少なくなりました。レジデント生活では仕方ありません。新聞小説はその点、ありがたいと思います。新聞は全国紙2紙の朝刊と夕刊、地方紙(朝刊)1紙を読んでいます。新聞小説は合わせて5作。1つの作品はおよそ1年で完結しますので、年5冊のペースになります。次の日、あるいは次の週につなげるストーリー展開に感心し、また作家の苦労に思いを馳せます。

「読書量」を増やすもう1つの手は、書評を読むことです。週末の新聞には書評がたくさん載ります。本の中身を手軽に知るという意味はもちろんありますが、書評はそれだけではありません。評者は丹念に本を読み、自身の感想を交え、時代背景の中で本の位置付けをしてくれます。長短はあっても一文一語に評者のこだわりを感じ取ることができます。

例えば11月23日(土曜、祝日)の日本経済新聞には18本の書評が載っていました。世界の表と裏、歴史と将来、哲学と現実、フィクションとサイエンス。縦横に時空を旅することができます。至福のひとときです。18本のうち印象に残る2本の書評を紹介します。

1冊目、「房思琪(ファン・スーチー)の初恋の楽園」(林 奕含(リン・イーハン)著、泉 京鹿 訳、白水社、評者:小山田浩子)。台湾の女性作家26歳のデビュー作であり、刊行2ヵ月後の自死により遺作となったことが書評から分かります。その事実だけでも衝撃なのに、評者の最後の言葉が胸を打ちます。「怒りや告発を意図していないからこそ悪としか言いようがないものの存在、その邪悪さと凡庸さ、それがこんなに美しい小説として眼前に示されたこと、物語の中でも外でももう取り返しがつかないことに言葉を失う。読前と読後で自分が、世界の見え方が変わるような一冊だ」。読んでみたい衝動と、読まないで済ませたい怖気が生じます。

もう1冊、「アメリカのニーチェ」(ジェニファー・ラトナー=ローゼンハーゲン 著、岸 正樹 訳、法政大学出版局、評者:森本あんり)。書評の副題は「『劇薬』手にした国の精神史」。アメリカ、ニーチェ、劇薬、精神史、この4語が並んだだけで書評に釘付けになります。評者の中盤の問題提示が光ります。「かくも辛辣にキリスト教をこきおろし、民主主義とヒューマニズムをあざ笑った人物が、どうしてアメリカのリベラルな文化プロテスタンティズムと親和的であり得ようか」。ニーチェを劇薬に例え、アメリカ人が劇薬を利用し、劇薬に染まる過程を書評が簡潔に解き明かしてくれます。プラグマティズム、反基礎づけ主義、フェミニストの本質主義批判、神学者ティリヒ、ブラック・パンサー運動、プレイボーイ誌、アラン・プルームの「アメリカン・マインドの終焉」など、知る言葉と知らない言葉が混在しても評者の言わんとするところは分かります。「アメリカン・マインドの終焉」を受けて、作者および評者の締めの言葉がこれです。「絶対的なものの亡き後、教育とは若き魂に『憧憬の矢』を放つことだ、という結尾の一言は、挑発的で共感できる」。なぜ最後は教育なのか。書評には書かれていません。作者も評者も大学教授だからなのか。教育に関心のある私としては興味をそそられます。読もうかな・・・。大部の思想史だとあったので無理かな・・・。
「こんなくだらない文章を書いている暇があったら、さっさと買って読め!」
誰かに脳天を叩かれました。
はい!
密林で注文しました。