検疫 quarantine から思うこと

豪華クルーズ船ダイアモンド・プリンセス号が新型コロナウィルス騒動のために横浜港の沖に停泊させられています。1月25日に香港で下船した乗客の1人が新型コロナウィルスに感染していたことが2月1日の深夜に判明したからです。2月1日に寄港した沖縄県那覇市で行った検疫は無効とされ、2月3日横浜港着岸前に再検疫となったとのことです。2月4日夜現在、再検疫は終了していません。乗客は船内の部屋に隔離されたままとのことです。
「今後、どうなるか」という深夜のニュースを聴きながら、ペストを巡る話を思い出しました。

検疫は英語でquarantineと言います。なぜ検疫がquarantineという「難しい」単語なのか。逆に言えば、quarantineを「検疫」と訳した日本人(中国語も同じなので実は中国人?)は大したものだと思います。英語を母国語とする人でもquarantineが「外国から持ち込まれる感染症への対策」を意味することは直感的に理解できません。しかし、「検疫」という漢字からは「疫病の検査」というイメージが自ずと湧きます。
では、quarantineの語源は何でしょうか。イタリア語の「40日」です。なぜ「40日」なのか。

14世紀のヨーロッパに大流行した感染症のペストに関係します。
ペストはペスト菌という細菌で伝染します。ペスト菌はネズミが保菌宿主となっています。ネズミの血液を吸ったノミが媒介となります。そのノミが人を咬んだとき人にペストを伝染させます。ペストを発病すると全身が侵され皮膚の紫斑・壊死を来たし敗血症で亡くなります。黒死病と言われる理由はここにあります。肺に広がると肺ペストになって飛沫感染が起こり、ヒト-ヒト感染が爆発的に起こります。ヨーロッパの人口の1/3が死んだとされます。当時、大量輸送の手段は船でした。イタリアのベネチアでは外国からの船の入港に当たり乗客の健康面だけでなく、荷物の中に必ずいるネズミの「健康診査」もしなければなりませんでした。しかしネズミの全数チェックなどできるわけがありません。
今でこそ、ペスト感染症の潜伏期間は通常3-7日、肺ペストだと2-3日、最短12時間だと言われています(国立感染症研究所website参照)。もちろん中世の時代、そんな知識はありません。ましてやネズミが相手となると、意味をなしません。経験則だったのだと思います。入港前40日間(イタリア語でquarantena)、沖に停泊させ、ペスト感染者が発生しないことを確認してから上陸させたようです。これに因み検疫quarantineができたというわけです。

昔、医学生時代に公衆衛生の講義で確かにこの話は聞きました。以来、誰に話すこともなく自分の知識として持っていました。医学生教育に当たるようになってからも特にこれを話題にすることはありませんでした。なぜなら、医学生に医学の歴史を教えることはなかったからです。感染症の専門の先生がこの話題に触れることを何度か聞いたことがありましたが、ただそれだけのことでした。
看護学生に講義をするようになった2007年から、毎年、医学の歴史の面白さを伝えるようにしました。外科の恩師森岡恭彦先生の影響によります(2019年10月28日のブログ参照)。
「歴史を繙(ひもと)くと面白いよ。」
この言葉に触発されたからです。

看護学校では古代に遡って講義をしていき、中世の時代に来るとペスト大流行のこととともに検疫quarantineを教えました。
そしてペストは現在も世界では当たり前に起きている感染症であることを伝えてきました。当時の講義資料の一部をお示しします。

授業が近代の医学史に入って来ると、ペスト菌発見の物語にはそれなりに面白いものがあることを教えました。日本の北里柴三郎(ドイツのコッホ研究所に留学経験あり)は香港でのペスト流行のとき現地に乗り込んでペスト菌を発見しました。ほぼ同時期、同じく香港にいたフランスのパスツール研究所のイエルサンもまたペスト菌を発見しました。熾烈な発見競争の結末はイエルサンに軍配が上がりました。その理由についてはいろいろ言われていますが、ともかく現在、ペスト菌の学名はYersinia pestisとなっています。その後もコッホ研究所とパスツール研究所の研究争いは歴史に残っています。パスツール研究所は20世紀後半のエイズ・ウィルス発見に繋げたことも話してきました。

ダイアモンド・プリンセス号にもどります。
乗客はおそらく2週間、船中泊を余儀なくされるのではないかと思います。武漢から飛行機で帰国した人たちは関東のあちこちのホテルや宿泊施設に2週間隔離されています。船ならそのまま乗船していればよい、ということになるように思います。初回検査で新型コロナウィルスが陰性であってものちに陽性となった例を経験すると、中世のベネチア港と同じく潜伏期間に安全域をとった14日が過ぎるのをひたすら待っていただくということになりそうです。
船中泊の方は辛いとは思いますが、ネズミが介在しないので40日にならないのがせめてもの幸いのようです