気管支喘息のこと

1977年の夏、医師になって5年目、29歳のときでした。群馬の病院で駆け出しの外科医として忙しくも楽しく働いていました。夏風邪を引いたあと、いつまでも咳が続き、そのうち息を吐くとき胸の奥でヒューという音がするようになりました。
これは喘息かも。初めて思い至りました。内科の部長に診ていただき、間違いないでしょうと言われました。これがその後40年以上、今に続く気管支喘息の始まりでした。
当時の喘息治療はテオフィリンという気管支拡張薬の内服が一般的でした。発作が起きたときは同効薬であるネオフィリンの注射でした。はじめ内服薬はよく効いて咳はやがて治り、喘息発作はしばらく起きませんでした。しかし、秋から冬に移るころ、咳と喘鳴に苦しむ日が増えていきました。ガラスネブライザーによる吸入を内科医に勧められました。去痰薬(ビソルボン)と気管支拡張薬(アロテック)の薬液を入れて吸入するとたしかによくなりました。そのうちネブライザーが手放せなくなりました。そのため、ガラスネブライザーと電動コンプレッサーを個人購入して家でも病院でも吸入するようになりました(図1*)。しかし、それでも咳がおさまらないことが起きるようになりました。横になると苦しいので、座ったまま朝を迎える回数が少しずつ増えていきました。
*手元に当時の写真がないためRakutenに載っていた写真を借用。コンプレッサーは当時と同じだが、ネブライザーはこの3倍長いものを使っていた。ガラスの弯曲・向きも異なる。

気管支喘息はアレルギー疾患だとされていました。インタールという抗アレルギー薬の吸入を勧められましたが、全く効きませんでした。注射によるアレルギー体質改善薬(ヒスタグロビン)も期待して打ちましたが、無効でした。
やがて日常業務に差し障りが出るようになりました。外科部長が心配してくれて翌年(1978年)2月に1ヶ月の休みをくれました。上州の空っ風がいけないと勝手に思い、伊豆の三津浜で転地療養をしました。家族と一緒に海辺の旅館で1ヶ月過ごしました。仕事を離れ、ゆっくりしたためか、春の訪れとともに症状は改善し職場に復帰しました。

1978年4月、都内の大学病院にもどりました。大学には気管支喘息の専門家がいますので、診てもらいました。処方は群馬と同じく気管支拡張薬の内服が中心でした。発作時には気管支拡張作用のあるエアゾール型携帯吸入器を処方されました。ただこの携帯吸入器には動悸や手の震えという外科医にとっては困る副作用がありました。ガラスネブライザー吸入のほうがゆっくり吸うことができ、副作用も穏やかで、緊急以外は主にそちらに頼ることが続きました。ちなみに気管支拡張作用のあるエアゾール型携帯吸入器は、その後、心臓死が多発したため一部の製品は発売中止になりました。

1979年正月、教授宅で新年会が開かれました。多勢の医局員が揃っての宴会でした。当時は医師でも喫煙者が多く、タバコの煙が部屋に充満していました。その煙を吸い込んだ拍子に発作が誘発されました。携帯吸入器を使おうとポケットに手を入れるとありません。忘れてきたのです。これでパニックになりました。急いで帰路につきました。最寄りの駅まで10分余り、焦る気持ちで歩くうち、いよいよ苦しくなりました。駅までもう少しというところで窒息寸前に陥り、道路脇の民家に助けを求めました。救急車で病院に搬送されました。救急車に患者として乗った最初にして今のところ最後の体験でした。ネオフィリンとステロイドを注射してもらい、ようやく息を吹き返しました。

この救急搬送の1件から、自分ではステロイドの内服を真剣に考えるようになりました。しかし、大学の専門家は容認しませんでした。「まだその適応ではない」。そこで密かに考えたのは、ガラスネブライザーの液にステロイドを入れて吸入してみたらどうか、でした。
父親の医院でデカドロン注射液のバイアル(リン酸デキサメタゾン8mg/2ml)を見つけました。強めのステロイドです。これを貰って2mlの注射器に吸い、針先から1滴だけ吸入液に加えてガラスネブライザーで数呼吸だけ吸ってみました。今までとは違う爽快さを感じました。しかも、その後、数日ほとんど発作が出ないことを知りました。
これを担当医に話すと、すごい剣幕で叱られました。「そんなことをしたら、肺にカビが生えるぞ」。
そうは言っても発作が遠のく効果を味わうと、デカドロン1滴入りのガラスネブライザーは欠かせなくなりました。

西ドイツに留学しても(1986-1987年)、国立療養所東京病院(1988年)、自治医大附属病院(1991年)へと職場が変わっても、ガラスネブライザー(+蒸留水+気管支拡張薬+デカドロン1滴)と電動コンプレッサーを入れたボストンバッグは常に持ち歩いていました。

自治医大に赴任して2年が過ぎた1993年の5月、「気管支喘息は慢性炎症である、ステロイドの吸入が予防に有効である」という考えが欧米から日本に流れてきたのを知りました。あっと言う間に、日本の気管支喘息の専門家たちは一斉に慢性炎症説とステロイド吸入の必要性を唱えるようになりました。それに伴いアレルギーの話がめっきり少なくなりました。
かつて言語道断と否定されたステロイドの予防吸入が突然容認されたのです。呆れもしましたが、朗報だと思いました。ステロイド吸入が公に認められたのを機に、ガラスネブライザーは卒業して、ステロイドと気管支拡張薬の携帯吸入器に切り替え*、今に至っています。
*エアゾール型よりドライパウダー型を好んだ。具体的には、フルタイド+セレベント、のち配合剤のアドエアそしてシムビコート。

ステロイド吸入が日本で公認されてからまもなく、気管支喘息による死亡は急激に少なくなりました(図2*)。1977-1996年の全国喘息死亡数は年間約6000人とほぼ一定でした。それが1997年以降どんどん少なくなっていき、2014年には1500人近くまで落ちていきました。この図を見ると、苦い思い出が蘇ります。
*喘息予防・管理ガイドライン2015より引用。

西ドイツ留学中、同じ町で家族ぐるみの付き合いをしていた日本人家族がいました。その家族が夏にアルプスの山荘でバカンスを楽しんでいたとき、お子さんが喘息発作に襲われ、病院への搬送が間に合わずに亡くなってしまいました。私たちが帰国した翌年(1988年)のことです。デカドロン1滴を伝えておけば・・・。残念に思うばかりです。