精神科の臨床講義

臨床講義というのは、ひとりの患者を例にとって病気の診断と治療を考える講義形式です。一通りの勉強が終わる医学部の5-6年目に内科や外科がメインとなって行われます。かつて、その講義を担当するのは主任教授でした。

私の父の医学生時代(昭和一桁)には大学病院に入院している実際の患者が講堂に現れていました。学生に診察させ、その所見をもとに教授が病気の説明をするというスタイルだったようです。
私が医学生の頃(昭和40年代後半)、患者が講堂に現れることはたまにありましたが、多くはプリントの文字情報で症例の提示がされていました。やはり担当は教授でした。
私自身が臨床講義を担当するようになったとき(平成10年代)、プリントとともにスライドが多用されました。担当は教授以外にも助教授や講師が務めました。

半世紀前のいくつかの臨床講義は今でも鮮明に覚えています。それだけ鮮烈だったということです。その1つが精神科のある臨床講義です。

そもそも精神科の講義はほとんど記憶にありません。精神科の教科書を持っていた記憶もありません。それほど影の薄かったのが精神科でした。
これにはいくつか理由があります。
一番の理由は、大学紛争の影響で精神科病棟の実習が全くできなかったことです(いわゆる「赤レンガ闘争」*)。
* https://ja.wikipedia.org/wiki/赤レンガ闘争
精神科は講義と外来実習だけでした。それも他の診療科に比べ時間数が限られていました。さらに、当時の精神科U教授は過去の業績を厳しく批判されていました。そのため一部の学生は講義をボイコットしました。私はボイコットしたわけではありませんが、ともかく精神科の勉強をした記憶がほとんどないのです。ただ、精神科の1つの臨床講義だけは鮮明に覚えています。

いつものように私は少し遅刻して大講堂の後ろからそっと入ったとき、U教授がA3のプリントを配布していました。
「中年の女性が精神錯乱で受診した。その患者の現病歴、既往歴、家族歴、身体所見、精神学的所見、血液・尿所見、胸部エックス線は・・・である」。
文字情報がびっしり書かれていました。
プリントを一通り読む時間が過ぎたころ、U教授は大講堂の前の席に座っている学生に聞いていきました。
「診断は何か」。

大講堂の前の席に座っているのは、真面目な学生たちです。
その学生たちが答に詰まっていました。私も、何かなあ、と考えていました。比較的若い女性の異常な精神症状ですから、精神分裂病(現在の統合失調症)でよいのではないか、と考えていました。そもそも精神疾患で知っていたのは、恥ずかしながら、精神分裂病、うつ病、心身症という素人同然の知識だけでした。
前列の学生からまともな解答がないと分かると、U教授はいきなり正解を言いました。
「クッシング症候群」。
びっくりしました。副腎皮質のホルモン産生腫瘍からのステロイド過剰分泌に伴う精神症状だったというわけです。クッシング症候群は内科の試験にもよく出る超有名な疾患です。医学書では内分泌疾患として記載されています。満月様顔貌、中心性肥満、高血圧、皮膚線条などの身体所見が特徴で、ホルモン検査をすれば容易に診断できます。プリントの診療情報には、満月様顔貌などというピンとくる用語はありませんでした。あればすぐ分かります。当時の記憶は曖昧ですが、おそらく身長・体重(肥満があるはず)、血清カリウム(低値になるはず)、好酸球数(ゼロになるはず)などのデータがあったのではないかと思います。今ではCTで副腎腫瘍を見つければ診断の参考になりますが当時CTは存在しませんでした。
いずれにせよ、私を含め学生はステロイド精神病を忘れていたのです。忘れていたというよりは、家族歴や精神科所見の膨大かつ詳細な「目くらまし」に引っかかり、さらに「精神科」の臨床講義という先入観に囚われていました。解説を終えた後、U教授はニヤッと学生たちを見廻しました。

このときの学び、すなわち、情報は適切に整理・処理すること、先入観を捨てること、は私の生涯の道標となりました。