羽後花岡の旅

羽後花岡の旅(2022/7/21ブログ参照)の報告が遅れました。遅れた第一の理由は、院内感染クラスターの衝撃が大きかったからです。実は、他にも理由がありました。

羽後花岡、今の秋田県大館は、埼玉県の大宮駅から東北新幹線で新青森まで行き、奥羽本線上りに乗り換えれば最速4時間13分で着きます。しかし、秋田に行くのに青森から降りてくることに抵抗がありました。秋田なら、時間がかかっても堂々と秋田新幹線でまず秋田駅、そこから奥羽本線下りに乗り換え、東能代経由で大館に行くのが筋だろう。こだわりました。私の患者さんに秋田県能代市出身のかたがおられます。「能代を通っていくのですよ」と伝えると手を伸ばし握手を求めてこられました。

花岡は大館駅からかなり離れた山あいにありました。鳥潟会館はよく整備されていました(図1)。
訪れる人は1時間に1組ほど。会館の職員は余裕があるためか丁寧に案内してくれました。昭和10年代初め、鳥潟隆三先生が中心となって増改築を行った、京都から延1000人を超える大工・左官・庭師が招集された、との説明がありました。電気式呼び鈴が奥の座敷に設置され、集中暖房装置が居間にありました。廊下から庭に下りる沓脱台は横3mの巨大な鞍馬石でした。江戸時代初期の旧家を曳家(ひきや)して今の場所に移し、京風の庭園に鯉の泳ぐ池を配しました。四阿(あずまや)、茶室もありました。

素朴な質問を案内のかたに投げかけました。
帝国大学の教授になぜこれほどの財力があったのでしょうか。
現在の大学教授には到底あり得ない話だからです。
「コクチゲンのお陰です」。
案内人は待ってましたとばかり即答しました。

展示品の中に大阪朝日新聞の広告がありました(図1)。1927(昭和2)年4月13日付の紙面です。「京都帝国大学教授 鳥潟隆三先生創製 専売特許コクチゲン(煮沸免疫元)現代最モ進歩セル理想的新治療剤 皮下及び静脈内注射」と銘打っています。効能は、淋菌、百日咳菌、チフス菌、ブドウ状球菌、肺炎菌、連鎖状球菌、インフルエンザ菌、流行性脳脊髄膜炎菌、肺炎インフルエンザ、大腸菌などと読みとれます。「発売元 福井七商店 製造元 鳥潟免疫研究所」とあります。

私には衝撃でした。
というのは、私の父、永井亮二の医学博士論文「人体ニ於ケル抗腸「チフス」菌経皮免疫ノ研究」の「経皮免疫方法」の項には、「市販ノ鳥潟免疫研究所製造腸「チフス」菌「コクチゲン」(昭和11年12月3日)ヲ軟膏ト為シ・・・」とあるからです(図2、赤線は筆者による)。
つまり、指導教授が大衆向け商業ベースで大々的に売り出している医薬品を使って研究を行い、その有効性を学位論文で「証明」したのです。自分の研究が恩師に利益をもたらすのです。
現代の利益相反(COI)そのものです。昔と今とでは医療倫理、研究倫理は当然異なります。父を、また鳥潟先生を非難することは必ずしも妥当ではありません。戦前、医薬品の広告には規制がなかったようです。コクチゲンのような医薬品広告が新聞に溢れていました*。
*https://rekisineta.ldblog.jp/zaturoku/iyakuhin-kohkoku.html
鳥潟会館の展示品に、「往診用自家用車(リンカーン:当時この型の車は日本では2台しかなかった)」、「大阪鳥潟病院正門」の説明が付いた2枚の写真がありました(図1)。豪奢な暮らしだったようです。

時代が違います。 今の価値観で物事をみてはいけないのは十分承知しています。それでも、科学とは何か、研究とは何か、医学とは何か、医療とは何か、を考えると、衝撃が大きすぎました。
羽後花岡の旅の報告が遅筆にならざるを得ませんでした。

コクチゲンの効能は戦後、失せました。
父の論文にデータの捏造はあったのでしょうか。
論文の中味を検証しました。
捏造はない、と思いました。(続く)