舞台「ザ・ドクター」〜人間である前に医師です〜

昨日の日曜日、栗山民也演出・大竹しのぶ主演の舞台「ザ・ドクター」を渋谷のパルコ劇場で観てきました。原作はイギリスのロバート・アイクの2019年の戯曲。内容はチラシにある通りです。医学のさまざまな問題とともに人種・宗教・性が議論されていました。残念だったのは、大劇場の最後列に近い席だったため聴き取れない言葉がたびたびあったことです。とくに早口の台詞はほとんど聞き取れませんでした。予め台本を入手していましたので、予習と復習で大筋は理解できました。SNSでも言われていますが、この劇は小劇場での上演がふさわしいと言えます。

観劇は水戸芸術館ACM劇場という小劇場での「遺産と誤算の狂想曲」以来8年半ぶりでした。これも翻訳劇でしたが、笑いながら喜劇を十分楽しめました。
「ザ・ドクター」の観劇を決意させたのは、テーマを別にすると「翻訳 小田島恒志(おだしま こうし)」が1つの理由でした。私の大学1年(教養学部)の時の英語の講義で印象に強く残るのが小田島雄志(ゆうし)先生でした。今回の翻訳も雄志先生かと思ったところ、名前が一字違っていました。ひょっとして息子さん?と思って調べるとその通りでした。

小田島雄志先生に私が英語を習ったのは1967年、50年以上前です。雄志先生は当時40歳前ながらシェークスピアの翻訳で既に有名でした。丸顔の小柄な体、ダジャレを飛ばしながら身振り手振りを交え英語の真意を鋭く説いていました。テキストはテネシー・ウィリアムズの戯曲「欲望という名の電車」。大学に入りたての未熟な私たちに「大人の愛」を熱く語っていました。

ウィキペディアによると息子さんの恒志氏はお父様と同じ英文学の道を歩み現在59歳、早稲田大学教授です。お父様の雄志先生や恒志氏の奥様の則子氏とともに戯曲の翻訳活動を展開されています。そう言えば前述の「遺産と誤算の狂想曲」の翻訳は小田島恒志/小田島則子両氏によるものでした。「イサンとゴサン」、「キョウソウキョク」はお父様譲りのダジャレだったようです。

自分のわずかな経験ですが、翻訳は骨の折れる作業です。科学書の翻訳は硬い日本語であっても意味が分かりさえすればよいという我がままが許されます。ところが、戯曲の翻訳はそうはいかないはずです。日本語の会話として最高級の自然さが求められます。今回、聞き取りにくさを除けば、翻訳はさすがプロだと思いました。

もうひとつ、今回の観劇に際し知りたかったのは、キャッチコピー「人間である前に医師です」の真意です。

私が医学生や若い研修医に常に言ってきたのは「医師である前に人であれ」です。専門分化した医療の中で病気の診療に囚われて患者の存在を忘れがちになることへの戒めとして強調してきました。当然、自戒の言葉でもありました。
なのに、舞台「ザ・ドクター」では主人公に「人間である前に医師です」と言わせるというのです。どのような状況でこの言葉が発せられるのか。関心がありました。

ネタバレになりますので詳細は省きますが(本当は詳しく述べないと説明が難しいのですが)、主人公ルースの言動が宗教・人種・性に囚われていないかと厳しく追及されるディベートがあります。ルースは毅然と応えます。「医師として、私は何も間違ったことはしていません」。それを踏まえ最終場面でルースは「人間である前に医師だと思っています」と語るのです。

こうしたストーリーの中で判断できるのは、「人間」とは人種・宗教・性に縛られた価値観であり、「医師」とはその価値観に囚われない職業観を表しているように思われます。
だとすれば、私の言う「医師である前に人であれ」も、ルースの「人間である前に医師だと思っています」も、大意は変わらないということになります。私が主張してきた「人」は人間性を表しますし、ルースの言う「医師」は絶対的な意味での医師像を意味しているように思えるからです。
その医師像も最後は揺らぎます。パートナーの最期を思い起こしてルースは泣き崩れ、幕が下ります。

先週、私の担当で2人のかたに予期せぬ最期がありました。どちらも、医師としてもう少し何かできただろうに、と強い叱責を受けた思いがしました。
私の「医師である前に人であれ」の次の言葉は「医師となるからにはプロとなれ」であったのに・・・。