茨城県では県立中央病院院長として8年、名誉院長として4年、計12年を過ごしました。
院長としての仕事は県立病院の立て直しということでしたが、幸い多くの人材に恵まれ、右肩上がりの実績を出すことができました。

当初、病院経営の赤字が県議会で問題にされ、厳しく追求されても、「良い医療さえすれば経営も自ずとついてくる」の持論を展開しました。事実そうなりました。とくに救急医療・がん診療・循環器診療の充実に努めました。
その一方で、県全体の医療にも関わっていきました。県のがん対策・地域医療・医療教育担当顧問として、県のがん対策や医師不足地域の医療対策に長年関わりました。医師不足の著しい茨城県ですので、外科医も不足しています。県立中央病院の外科も例外ではありませんでした。
院長としてではなく、1人の外科医として多くの手術に入り、若手外科医の指導にも当たりました。県の医学部奨学生の地域医療実習に同行することも多くありました。県北部の地域中核病院からの依頼で、私自身がへき地診療に定期的に出かけてもいました。

赴任の条件であった県民への医療教育も当初から行うことができました。まず県立中央病院のある笠間市での小学校および中学校での医療教育がモデル事業として認められ、現在も続けられています。
県全体の事業としては、県内の中学校と高校におけるがん教育が広く実施されるようになりました。一部、小学校でのがん教育も始まっています。これらのがん教育には、がん患者の会も積極的に関わっています。文部科学省の会合でも茨城県の取り組みは注目されています。
医療教育・がん教育の集大成として、2015年12月に「茨城県がん検診を推進し、がんと向き合うための県民参療条例」が制定されました。この中にある「参療」という言葉は私の提案によるものです。他の県の「がん条例」と大きく異なる点です。すなわち、県民(国民)自らが(がん)診療に積極的に参加し、自分の命は自分で守ることを謳っていることです。医療者のみならず県民や教育関係者の責務も規定されました。
医療提供体制と受療体制、この2つの体制の充実が少なくとも茨城県では定着しつつあることが確認できるようになりました。医師不足だからこそ定着するのではないかと思っています。今後、他の県も見習うとよいように思います。

妻は、私との生活を茨城県で送っていましたが、やがて孫が3人となり、その面倒を見るために孫のいる埼玉県へ行くようになりました。初めは月に1〜2回でしたが、やがて毎週1回、そのうち泊まりがけで行くようになりました。往復が大変とのことで埼玉に中古マンションを買い、そこを拠点とするようになりました。
そうこうしているうち、妻はほとんど埼玉にいて、たまに茨城の私のもとに来るようになりました。そして私は45年ぶりに独身状態となってしまいました。
70歳を超え人生の最終段階に入ったことを感じ始めたとき、県知事が交代しました。これがきっかけとなりました。
「あなた、いつまで茨城にいるの!?」という妻の要求を受け、生まれ育った埼玉に戻ることになりました。

2019年春、埼玉県に移ってきました。
ではなぜ、さいたま記念病院だったのか。そのうちお話しします。

(「茨城県がん検診を推進し、がんと向き合うための県民参療条例」(2015)のパンフレットから)