萩の銀河を一、二、三

1989年秋、東京の療養所病院に勤めていたとき、最期を看とった都寧女(つねじょ)さんの句です。
上五は「オー痛い」。
転移性がんで入院していました。亡くなる少し前、震える手で私に書いてくださいました。

オー痛い 萩の銀河を 一、二、三

都寧女さんとの思い出は尽きません。

半年ほどのお付き合いの中で、俳句のお話を幾度となくお聞きしました。
まだお元気だったころ、実は自分の句碑が旭川の公園にあるのよ、と話されたことがありました。
結婚後に長年過ごされた旭川に俳句仲間とそれぞれの句碑を立てたのだというのです。
「どんな句なのですか」。
すぐに鉛筆ですらすらと書いてくださいました。

春たぬし あらぬところに あらぬ芽が

私は俳句の素人ですが、「言葉が面白いですね、小さな発見に新鮮な味わいがあります」などと分かったフリをして感想を述べました。
ド素人だとすぐ見抜かれたのだと思います。
「あら、先生、俳句がお分かりになるのね」。
少しだけ笑顔をつくってくださいました。
「北海道には学会で行くことがあるので、いつか拝見したいですね」。
私の悪い癖で、つい言葉が出てしまいました。

都寧女さんが亡くなってまもなく、遺句集が御家族の手で編纂されました。
本のタイトルは「春たぬし」。
巻頭頁に1枚の白黒写真が印刷されていました。私に話してくださった旭川の句碑でした。漢字交じりの達筆な文字が御影石に彫られています。
「春たぬし 阿ら怒とこ旅ニ あ羅ぬ芽可゛」

遺句集の最後は、8句の絶句で締めていました。
その1つが「オー痛い 萩の銀河を 一、二、三」でした。

2000年秋、栃木の大学に勤務していたとき、札幌で学会がありました。最終日の前夜、都寧女さんの句碑を訪ねようと思い立ちました。一緒に飲んでいた旭川医大卒の後輩外科医に話しかけ、誘いました。土地勘があると踏んだからです。何よりも、彼の普段の心意気を思えば必ず乗ってくれると確信もしたからです。彼は、私の思いを聞くと、苦笑いしながら素直に従ってくれました。
翌日、学会を早めに切り上げ、千歳空港からの帰りの昼の便を旭川空港の夕方の便に変更し、2人で旭川行きの電車に乗りました。昼近く、旭川駅の案内所で句碑のある場所を聞きましたが、よく分からないとのこと。行き先の定まらぬまま後輩にレンタカーを運転させ、あちこち巡りました。行く先々で手当たり次第尋ねましたが、ヒントは得られませんでした。文芸関係なら三浦綾子記念文学館辺りではないか、と教えてくれた人がいました。期待して訪れると、句碑などない、と言われてしまいました。その代わり、町なかに近い常盤公園ではないか、あそこにはたくさんの碑があるから、と教えてくれました。
飛行機の出発時刻が迫るなか、後輩と手分けして広い常盤公園を探し回りました。確かに、多くの文学碑があり、句碑も少なからずありました。しかし、「春たぬし」は見つかりませんでした。ついに時間切れ。あきらめて旭川空港に行き、羽田に戻りました。後日、ご主人の電話番号を調べて連絡すると、旭川の郊外だというのです。ただし正確な場所は忘れたとのことでした。

その後、旭川医大卒の研修医に会うたびに句碑のある郊外の公園を知らないか、尋ね続けました。誰も知りませんでした。

やがて、インターネットで調べられる時代になりました。
ある夜更け、ふと思い付き、「旭川・郊外・句碑」で検索してみると、「丸山句碑の森」がヒットしました。旭川市の隣の鷹栖町にありました。今度は「丸山句碑の森」をキーワードに検索を進めると、大きな案内板を写した画像に行き着きました。これを拡大すると句碑の作者名とその位置に番号が付されていました。そして遂に発見しました。「119 都寧女」。

2018年秋、茨城にいたとき、ある大学の看護学部から講義を頼まれました。課題は「がんから学ぶ」。緩和ケアに触れることにしました。そうだ、都寧女さんとのことを包み隠さず看護学生に話そう。娘さんの連絡先を探し出し(ご主人は亡くなっていました)、趣旨をお話しして、実名・顔写真入りの発表を御承諾いただきました。
講義の直前、思い切って休みを取り、日帰りの予定で旭川に飛びました。空港でレンタカーを借り、丸山句碑の森へ向かいました。車を降り、落ち葉を踏みしめ、誰もいない公園の小道を歩いて行きました。ゆるい坂を登って行く途中、左の笹むらの前に「春たぬし」を見つけました。文字は薄れていましたが、まちがいなく都寧女さんでした。
拝見したい、そう約束してから29年が経っていました。
「春たぬし」が「オー痛い」で終わったことにあらためてお詫びしました。

今また秋。
都寧女さんは、痛みから解放され、ご主人と一緒に、花を愛でつつ、句をひねりつつ、萩の銀河を、穏やかに散策されています。
「あら、先生、俳句がお分かりになるのね」。