3人の運命のことを6月11日に書きました。
それから1ヵ月。3人は次々と旅立ちました。
Kさん、Tさんのことは以前書かせていただきました(6月8日、7月5日)。
Mさんのことは書いていません。
ご家族のお許しを得て、詳しく書かせていただきます。

Mさんは、前に勤めていた茨城の病院の患者さんです。膵臓がんでした。診断に手間取りました。がんと診断されたとき、遠隔転移がありました。というよりむしろ、遠隔転移で膵臓がんと診断されました。診断の限界でもあり、今後の課題にもなりました。
病院が一丸となって、あらゆる薬物療法を試みました。痛みに対し放射線照射も施行しました。新しい免疫療法の可能性を探るためのコンパニオン診断も行いました。残念ながら適応なしの結果でした。最後は緩和ケア病棟に入りました。
やがて腹膜転移のために腸閉塞となりました。鼻からの管で症状を和らげようとしましたが、その管が苦痛になりました。その苦痛を除くため胃瘻を造設しました。それでも腸閉塞は解除できず、ある夜、突然、激しい腹痛とともにショックに陥りました。

緩和ケア病棟入院中です。しかも膵臓がん末期の穿孔性腹膜炎です。緊急手術するかどうか、遠く離れた私のもとに内科担当医から電話がきました。腹膜に広がったがんによる腸管穿孔は、手術をしても処置できずに終わる可能性が高い。では、手術をせずに苦痛を取り除く、つまり、意識をなくして眠らせたまま最期を迎えるようにする。それが本当によいのか。電話を手にして悩みました。
その時、内科担当医が言いました。Mさんのご主人は手術をしてくれ、このまま眠らせることはできない、と強く主張されているとのこと。手術しかない、と思いました。手術でしょう。担当医に伝えました。担当医との電話を切ってすぐ、現地にいる外科部長に電話を入れました。ともかくできることはやってくれ、と。

夜遅く、外科部長から手術結果が電話で伝えられました。小腸穿孔だったこと、穿孔部を切除して人工肛門に何とかできたこと、ただし、ショック状態が続き無尿であること、が伝えられました。全力を尽くして欲しい、と頼みました。がんの末期状態なのに全力を尽くすとはどういうことか。疑問がないわけではありません。それでもお願いしました。
翌日は土曜日でした。午後、埼玉から茨城の病院に様子を見に行きました。ICUに飛び込みました。気管挿管されて人工呼吸器に繋がれ眠っているMさんのそばに立ちました。透析を受けていました。尿量をチェックしたところ少しだけ尿が溜まっていました。モニターの血圧は低めながら100を保っていました。ベッドサイドに架けられた輸液と昇圧薬の内容をチェックしたあと、ふとMさんの方を向くと、目を開けてじっとこちらを見つめていました。
えっ、意識があるの?!
分かりますか?と聞くと頷かれました。何かを言おうとしますが、気管挿管されていますので声は出ません。私の手をとって字を書こうとします。私の手のひらにゆっくりと平仮名を書いていかれました。
み・ず・の・み・た・い。
「水はちょっと待ってください。そのうち飲めるようになりますから。」
あれほど痛がっていたお腹の痛みのことを聞くと、痛くないと首を横に振ります。
手術をしてよかった。心底思いました。

その後の回復は目を見張るものがありました。緩和ケア病棟に戻ることもできました。同じ病院でMさんの娘さんがひと月前にお子さんを出産されていました。Mさんの手術後の奇跡の回復のあと、親子三代の微笑ましい光景を再び私も見ることができました。外科部長のお陰でもありますので、彼に会うたび感謝の言葉をかけました。
しかし、膵臓がんはもちろん手を緩めません。Mさんの体力は徐々に落ちていきました。そのとき、Mさんは病室で洗礼を受けました。洗礼名はフランチェスカ・ロマーナ。中世の良妻賢母でありながら信仰の道を選んだ聖人にちなんでいます。十字架が常にベッドサイドに置かれるようになりました。
私がお見舞いに訪れるのは外勤日の関係で週1回でした。病室に行くと、苦しいのに精一杯の微笑みで迎えてくださいました。息子さん夫婦、娘さん夫婦にお孫さん、そして、ご主人が同じ部屋に所狭しとおられたこともありました。家族の濃厚な絆を感じました。
6月末、緩和ケア病棟に飾られた七夕の短冊にMさんの言葉を見つけました。
「すい臓がんの薬がもっとたくさん開発されますよーに!!」
胸が痛みました。ごめんなさい、間に合わなくて。

そのMさんが、先日、家族に見守られながら天国に召されました。穿孔性腹膜炎の手術から1ヵ月余り。がん末期患者に夜中の緊急手術をし、透析もしました。その意味はあったのか。その問いに、自信を持って「あった」と言える自分。Mさんとそのご家族から多くのことを学びました。
Mさん、お疲れさま。そして、ありがとうございました。
天国でどうぞ安らかにお休みください。